まさかの吉田松陰(の妹)〜大河ドラマ「花燃ゆ」で燃ゆ
10年ほど前のこと。
私のなかでかなり激しい幕末ブームが吹き荒れていた。
定石通り司馬遼太郎の著書「竜馬がゆく」に感動し、
古書やら小説やら史実書など乱読してはポーッと熱を上げていた。
ヒートアップしすぎた私は本の世界から飛び出して
長崎、鹿児島、高知、山口、会津、京都etc と史跡巡りツアーを敢行し
だれもいない亀山社中跡でひとり感動にうち震えたりと
自分でも持て余すほどのフィーバーぶりであった。
そんな幕末偉人伝のなかで
辞世の句に出逢い、その粋っぷりにハートを射抜かれた人がいる。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
ご存知 高杉晋作である。
↑海老名SAで購入した晋作セット
ここでやっと大河ドラマの話につながる。
今年の大河は高杉晋作の師匠である吉田松陰の「妹」が主人公だ。
幕末に興味のない人からすれば吉田松陰でさえ地味なのに
その妹が主人公とは大河陣営も思い切った決断を。
「月刊松下村塾」(←こういうニッチな雑誌もたまらなく好き)購買者としては目が離せない今年の大河ドラマ。
ああ、10年前の私に伝えてあげたい。
「2015年を心して待て!まさかの吉田松陰ブームがやってくるのだ」
↑「花の奇兵隊」の手ぬぐいを握りしめて拝見いたします。
カオス理論とフラクタル理論とバカボンの教え
“宇宙とはミクロでありマクロである”
小学生のときから生粋の宇宙好き
(しかし残念ながら生粋の数学音痴)
そんなド素人が 宇宙論とは関係のない
養老孟司氏の著書を読みながら何度も考える。
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★カオス理論
例えば・・・
天気というのは物理現象のひとつである。
ということは方程式が存在するのである。
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↓
けれども実際に計算してみると
本日の気圧(ヘクトパスカル)の小数点以下を
入れるか/入れないかで
結論が快晴と嵐ほどに違ってしまうという。
↓
↓
結局
方程式が理論的には完璧に正しくても具体的には使えないし予想ができない、
そういう理論系があることがわかってしまった。
これがカオス理論のポイント。
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続いて・・・
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★フラクタル理論
これも不思議なことが導きだされる。
「計るモノサシによって距離(長さ)が変わる」という。
とある国境線の長さを計ったときに
A国とB国の計測結果がどうしても合わない。
その誤差の原因は
両国の計るモノサシの大きさの違いだった。
↓
これまで科学的・数学的に“絶対的な正しい長さ”が存在しているという考え方が当たり前だったが、実はそんなものはないんだ、と科学者や数学者が証明した。
↓
大切なのは
「どのモノサシを使うか」というルールのほうである。
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↑「これでいいのだ」というモノサシ(※唯一描ける似顔絵がパパ)
仕事でも遊びでも
自分のなかにしっかりとした基準(モノサシ)を持つことが大事なのだ。
器用で不器用な男と不器用で器用な昭和の男/高倉健さん
(文化勲章受賞についてお母様にはなんと伝えましたか?という質問に対して)
“あんまり言いたくありません。すいません” 高倉健
個人から個人に伝えた「大切な言葉」は
たやすく他の人に公開するものではない。
そういう分別ができる昭和の大人がお亡くなりになった。
なんでもかんでも言葉にすれば伝わるわけではない。
インタビュアーは聞くのが仕事。俳優は演じるのが仕事。
語るべき言葉が見つからないときには
沈黙を選ぶのが大人のたしなみ。
リアルタイムではないものの
テレビで再放送されているのを小さい頃から何度も見た。
桃井かおりの浮遊感、武田鉄矢の汗臭い熱量、そして高倉健さんの大いなる沈黙。
きっと今日は多くの日本の大人たちが
心の中で小さな誇りとともに謹んで哀悼の意を表しているだろう。
“放浪と旅の違いがわかりますか?目的があるかないかです”
(映画「あなたへ」より)
映画「アリス」/ヤン・シュヴァンクマイエル
チェコの芸術家であり映像作家のヤン・シュヴァンクマイエル。
シュルレアリストとしての活動でも名を馳せている。
ところで “シュルレアリスム” ってなんでしょう
ド素人が僭越ながら想像すると・・・
ダリのビローンとした時計のイメージ?
ルネ・マグリットのビローンとした目鼻口のイメージ?
↑ 口はビローンしてなかった
『シュルレアリスム革命』誌の編集長となりその中心的存在であった
アンドレ・ブルトンの文学作品『溶ける魚』のイメージ?
(「自動記述」という実験的手法によって書かれた文章)
まとめると 夢の中の幻想的・意味不明瞭なムードということだろうか。
「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロルは
数学者であり論理学者であった。
彼が友人の子供とピクニックに出かけたときにせがまれて
口頭で作り出したのが「アリス」の物語。
お茶会へ急ぐウサギを追いかけ 不思議の国へ転がり落ちるアリスの物語はそれだけでも十分に “不思議” なのだが
その不思議をヤン・シュヴァンクマイエルが表現すると
より不思議に より不気味に より直達的に シュルレアリスムしている。
ヤンさん曰く 自分の表現について
「チェコ生まれの人間なら理解できるはずだ」と発言しているという。
インタビューで彼は次のように答えている。
『もっとも重要なのは、創造者のなかの「たくわえ」から生まれる内的な力です。自己表現にもちいる方法は取り替えられますから。専門家による「分業」は、最後は不毛な思考と空虚な「人工論」に行き着いてしまうので認めません。私が探し求めているのは表現の普遍性なのです。この意味において私の態度は「戦闘的」シュルレアリスムのそれです。』
戦闘的でありエンタテインメントとして成立している作家。
そして彼の普遍性とはなんだろう。
「鹿男あをによし」/万城目学
“さあ、神無月だ―-- 出番だよ、先生”
奈良を舞台にした 鹿と主人公の「おれ」が繰り広げる歴史ファンタジー。
数ページ読み進めると
あれ?何かと同じ匂いのする文体と登場人物。
神経衰弱、マドンナ、婆さん、堀田、美術教師・・・
夏目漱石「坊ちゃん」へのオマージュがたっぷり注がれているがストーリーは全くの別物。
主人公は赴任先の奈良で「サンカク」と呼ばれる何かを運んでこい、と告げられる。
オッサン声の鹿に。
そこから卑弥呼やら古墳やら地中に眠る大鯰やらが絡み合い
あれよあれよという間に重大な役割を押し付けられる「おれ」。
ちなみに「あをによし」とは「奈良」にかかる枕詞。
有名どころだと こんな歌も。
“あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり”(万葉集)
登場人物の名前も “雅” がチラリズム。
藤原先生=藤原京、小治田教頭=小墾田宮・おはりだのみや、大津校長=大津京、福原先生=福原京、長岡先生は長岡京
「坊ちゃん」が発表されたのが1906年。
「鹿男あをによし」はその約100年後の2007年出版。
さて 3007年頃には世の中にどんな作品が発表されるのでしょう。
「どんなにつらくて、悲しいことがあっても、さすがに10年経ったら忘れてるでしょう? だから、ああ、あんなことがあったなあって、10年後に笑っている自分の姿を想像するんです。そうすると、ちょっと気がラクになるんですよ」
(「鹿男あをによし」より)
↑ドラマにもなりました
蟹とたはむる「一握の砂」/石川啄木
“東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる”
石川啄木の代表作「一握の砂」の最初の一首。
この作品のぐっとくるポイントは
“映像的なズーム感” と “蟹” だ。
“映像的ズーム感” は「東海の小島の・・・」と
“の” つなぎで 広い場所から自分の手元まで視点を移動させていることが
効果を生みだしている。
そしてやはり “蟹” がいい味だしている。
大の男が泣きながらしゃがみこんで蟹とたわむれている図。
蟹といえば思い出すのはProdigyのThe Fat of the Land。
↑ Googleで「蟹 ジャケット」 と検索すれば一発でひっかかる
この蟹は速すぎてたぶん たはむれられない。
「スタンド・バイ・ミー」/スティーヴン・キング
“何にもまして重要だというものごとは、何にもまして口に出して言いにくいものだ。”
小説「スタンド・バイ・ミー」の 最初の一行。
一番伝えたいことは なかなか言葉にならないものだ。
自分の考えを100%他者に伝えるのは不可能だ。不可解だ。
しかし「スタンド・バイ・ミー」を読むと
作者の伝えたかったことが おぼろげに残る
言葉を組んでつないで 書いては削って 何かが残る作品になる
汽車に追われながら渡る橋の場面はいつ見ても手に汗握る。
それからヒルの恐ろしさを初めて知ったのもこの映画。
ヒルこわい。
「さよなら」
「またなって言えよ!」
(映画「スタンド・バイ・ミー」より)